nekosunshineの日記

躁鬱気味ックなねこさん日記。

他者であること

 

 

こんばんは、

 

最近就活がうまくいかずに、

 

自分に絶望してます。

 

 

 

野望の意味を調べたら、

 

自分の身の丈に合わないことを望むこと

 

である、とのことです。

 

 

 

 

 

 

私のことですね。

 

 

 

 

 

 

そして短期バイトにもうなされて、

 

怖いバイトさんに

 

ビビってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、本題に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は意外と哲学が好きなので、

 

たまに有名な哲学者の本を読んで、

 

自分なりに解釈します。

 

 

 

 

 

 

女性として生きる上で、

 

ボーヴォワールは欠かせませんが、

 

 

 

 

私が高校生の時

 

ありえんほど感化されたのが、

 

 

 

サルトルの『実存主義とは何か』です。

(自由に関する著書の方が有名だが、

私は実存主義にフォーカスをした方が好き)

 

 

 

 

 

私の解釈でしかならないのですが、

 

 

例をあげるとすれば、

 

 

私は高校生の時にオーストラリアに短期留学をしました。

初めての海外でした。

 

 

私はそこで

 

自分が他者であるという自覚

 

初めて感じとりました。

 

 

そして自分が何者であるかが、

 

嫌気が差すくらいに

 

わかるのです。

 

 

 

自分はアジア人で日本人で女である。

 

 

 

これ以外の事実はない。

 

 

 

 

サルトルによると、

 

 

他者を介して自分という存在が構築される。

 

 

他者の視線...

 

 

他者から見た自分....

 

 

他者から期待されている自分、

 

 

他者から疎まれている自分....

 

 

他者性は同時に自分を嫌な気持ちにさせるけれど、

 

他者がいなければ自分の存在は

 

わからないのです。

 

同時に自分が他者であるという自覚も

 

自分が何者であるのかを定義するうえで

 

必要なのではないか、と。

 

 

 

また唯物論についても考えてみます。

 

そして、

 

サルトルの著書『嘔吐』も

 

図書館で何回も読み直しては、

 

言葉を反芻します。

 

 

 

最近苦戦していたボーヴォワール著『第二の性』の1巻(2巻の方が読みやすいらしい)を再び読み始めたのですが、女性は男性にとって他者であるとのこと。

 

 

 

 

これは同意しかない。

 

 

 

 

結局のところ、

 

自分という存在を定義するには

 

他者を介するし、

 

 

 

 

まあでも実際

 

物事に意味なんてなくて、

 

 

 

 

自分という存在を定義づけ

 

束縛し自由を奪うのも

 

自分がどう決断するかなんだよなぁ。

 

 

 

 

私は自分のことアホで間抜けで

 

精神的にも

 

四天王の中でも最弱だと

 

考えているし、

 

 

 

私にはママの甲斐甲斐しい

お節介

お世話がないと、

 

一人じゃ到底生きていけないと

 

信じているが、

 

私の心の『家庭の天使』である

 

ママや自分自身に打ち勝たねば

 

自己を超越することなど不可能なのだという

 

気持ちになりました。

 

 

 

あくまで自分の解釈だし、

 

読んでから時間が経つので

 

あってるかわからないけど、

 

 

 

私はこう考えるのでした。

 

 

 

さて、

 

 

ポケモンスリープでポケモンたちを寝かせるために

 

もう寝ようと思います。

 

 

 

 

それではバヨバヨ。